江戸時代に人殺し(殺人)をしたらどうなる?法律や刑罰は?

市中引き回しの刑

江戸時代も今と変わらず、
多くの犯罪が起きていたことだろうが、
もし江戸時代に殺人をしてしまった場合は、
どのような処罰が下されるのでしょうか?

 

江戸時代の刑罰は、曖昧なことが多く
特に初期の頃は裁く人間の裁量で
刑罰が変わっていたようです。

 

しかしながら、
8代将軍、徳川吉宗公の時代に
「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)
なるものが制定され、
ここで犯罪の刑罰も一定のルールが
決められることになりました。

 

それによると、殺人罪は・・・・
まず加害者と被害者の関係によって
多少違いが出る。
目上の人を殺した場合は、罪が重くなるのだ。

 

————————————–

・尊属殺し・・・市中引き回しの上、磔(はりつけ)
※尊属=親・兄・叔父などの目上の親族
・卑属殺し・・・死罪、遠島
・主人殺し・・・鋸(ノコギリ)引きの上、磔
・辻斬り(通り魔)・・・引き回しの上、死罪

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といった具合になっている。

 

ちなみ言葉の確認ですが、

☆市中引き回し・・・死刑囚を馬に乗せ、街中を通り死刑場まで連行していく方法
現代よりもメンツを重んじた時代においては、この上もない刑であろう。

☆鋸引き・・・罪人の体をノコギリで引き切る方法
想像しただけでザワザワする

 

一応、時効があり、基本1年とされていたようだが、
監視カメラもなく、DNA鑑定もないこの時代、
目撃者がいなかったらほぼ捕まることはなかったのではないか。
さらには、当事者や関係者の供述の見極めは難しく、
冤罪が多発していたのだろうと推測されます。

陶晴賢(陶隆房)の辞世の句は?一本気な男の生き様がかっこいい

平安時代から戦国時代初期までの長期間、
西国一の大名として名を馳せた大内氏。

その大内家に家老として仕え、
大内家を思うばかり、
弱き当主である大内義隆を討ち
新しい当主を擁立するなど
大胆な活躍をしたのが陶晴賢(陶隆房)です。

毛利元就が英雄として描かれると、
当主討伐という謀反を起こした陶晴賢は
どうしても悪者となってしまうのですが。
(武田信玄も当主の親父を追放したから
似たようなことしているのに。。)

そんな悪者の陶晴賢、
その実は、非常に才気溢れ男気があり、
自らの命よりも家を重んじる
素晴らしい武将であったとされています。

その陶晴賢が厳島合戦で
毛利元就に敗れた際に残したとされる
辞世の句があります。

 

何を惜しみ
何を恨みん元よりも
この有様の
定まれる身に

(生まれた時からこうなることは決まっていた人生。惜しいことも恨むことも何もない)

 

なんと清々しい。
最後にはこのような気持ちで死にたいものです。

厳島合戦中の毛利元就の名言!チャンスを逃さないようにする言葉

厳島

毛利元就の戦の中で有名な「厳島合戦」

厳島にある宮尾城を攻撃中の陶晴賢(陶隆房)に対して、
毛利軍が奇襲をかけて大勝利をおさめた戦いです。

 

嵐の夜、毛利軍の評定で夜襲をかけるべきかどうかで
論争が起こります。

嵐が強すぎて船で夜襲をかけることは危険すぎるという意見。
逆に嵐だからこそ敵は油断していてチャンスだという意見。

その評定で、夜襲賛成派の毛利元就が名言を残したと言われています。

 

人の一生には3つの坂がある。
一つ目は上り坂。
二つ目は下り坂。
そして三つ目は、、、”まさか”じゃ。
この”まさか”の時の人の動きで、
上り坂に押し上げられるか、下り坂に突き落とされるかが決まる。
今この”まさか”を活かす時じゃ。

 

嵐こそ好機。
”まさか”を逃さずにしたいものです。

 

※厳島神社写真の出典:http://www.miyajima.or.jp/sightseeing/ss_itsukushima.html

百万一心とは?吉田郡山城跡にある毛利元就の名言

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E4%B8%80%E5%BF%83

 

中国の覇者、毛利元就は多くの名言を残しています。
その中でも有名な言葉の一つに「百万一心」があります。

 

この写真の石碑(実物ではない)は、
吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事の際に
人柱の代わりに使用されたものといわれています。

 

この石碑をよく見ると「百万一心」が

「一




心」

にも見えますね。

 

これは彫り師さんの怠慢ではありません!

「一日一力一心」=
「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」

という意味が込められています。

 

毛利元就殿、超コピーセンスがありますね・・・。

 

 

ちなみに「人柱」とは・・・

難工事完成を祈って神にいけにえとして
生きた人を水や土に沈めること。
とあります。
古来、日本各地でみられただけではなく、
世界でもみられる儀式です。

 

 

百万一心の碑はどこに?

この百万一心の碑は
広島県安芸高田市吉田町の元就の墓所内にあります。

住所:広島県安芸高田市吉田町山部257

徳川家康の母親・於大の方は再婚していた!?出身やお墓は?

みなさん、こんにちは。
今回は徳川家康の母親について調べてみたいと思います。

2000年放送の大河ドラマ「葵 徳川三代」では、
山田五十鈴さんの これぞ於大の方!(伝通院)という
名演技で記憶に残っています。

於大の方

この於大の方、徳川家康の父親である松平広忠との
結婚生活はたったの3年間で、
その後離縁して、久松俊勝(ひさまつとしかつ)と再婚をしています。

なぜ離縁をすることになってしまったのでしょうか?

 

於大の方のプロフィール

享禄元年(1528年)に尾張国知多郡の豪族である
水野忠政の次女として誕生。
知多郡とはおおよそこの辺です。

天文10年(1541年)に松平広忠に嫁ぎます。
徳川家康を産んだのは、2年後の1543年のことです。
そして翌年の1544年に離縁されたということになっています。

ではなぜ離縁されてしまったのでしょうか?

 

離婚の理由は?

松平広忠と結婚していたこの時代、
松平家はお隣の強国である今川家の傘下に入り、
家の安泰を図っていました。
ざっくりこんな感じ(今川家はもっとでかい)

しかし、実家の水野家が今川家と絶縁し、
織田家に従ったため、
とばっちりを恐れた松平広忠が
於大の方を離縁して実家に返したということです。

なんとも切ない話ですね。。。
この時代ではあるあるなんでしょうけどね。

 

再婚後に子供がたくさん

於大の方は久松俊勝と再婚後に
6人の子供を産んでいます。
3男3女です。
・松平康元(改名前:久松勝元)
・松平康俊
・松平定勝
・多劫姫
・松姫
・天桂院

この3男は、後に家康の家臣になっています。

 

晩年は?

於大の方は松平広忠と離縁後も
家康とは連絡を取り続け、
最終的には母として迎えられ、
家康の近くで晩年を過ごしました。

大河ドラマでは天下を取りにいく家康に
的確な助言をするゴッドマザー的な
存在になっていましたね。

天下人の母として歴史に名を残した於大の方は、
1602年に山城伏見城で亡くなりました。

関ヶ原に勝利し、いよいよ徳川家の天下へ
詰んでいく時期ですね。
まだ豊臣家も存続していましたので、
天下人になった家康を見ることは叶いませんでした。

於大の出生地である東浦町には、
於大公園があり、毎年「於大まつり」という
祭典が催されています。